東京にいると「手ぶらで自然が体験できる!」という売り文句で郊外の施設が紹介されていることがある。こういうのを見ると、首都圏の人たちにとって自然は「体験」するものなんだ…と思う。田舎に住んでいた自分にとって、自然は当たり前にそこにあるものであり、生活そのものだった。
実家は農家だったから普通のサラリーマンの家よりずっと自然に触れ合う時間が長かった。農家の子でも手伝いをする家としない家があったけど、うちはかなり子供は労働力として利用されていた方だと思う(それに苦情はない)
春は田畑の整備に始まる。重い肥やし袋を背負って田んぼを練り歩き、気温があがればコメを初めとする農作物植え付けの手伝いに追われていた。夏は魚を取りに川に行った。秋は言わずもがなコメの収穫、脱穀、袋詰め。冬は桜の木の出荷手伝いをしつつ、吹雪の中数キロ歩いて通学した。
こうして書いてみると、家族みんなが食べるために家族みんなで働いていたなぁと思う。うちは果物をやってないからまだマシで、兼業で果物もやってる家は夏はもっと忙しい。
こんな感じで18歳まで生きてきたので、自然を「わざわざお金を払って体験する」ってマジでよく分からない感覚だ。もちろん住宅地に住んでいれば自然と触れ合う機会もないだろうし、自然とそうなるのだろうが…ひょっとすると親の世代ですら「金を払って自然を体験する」世代なのだろうか。
私が小さい頃まで家畜が家にいたので、「ふれあい牧場」なんかもよく分からない。動物はかわいいけど、世話は大変だし、それを「体験」と言って可愛さだけを搾取して帰るのが本当にわからない。体験と言うなら糞の処理までして体験なんじゃないですか? まぁそれは置いといて、虫とか、泥とか、植物なんかを「キモイ」って平気で言う人に反吐が出る。自分の住んでる世界に存在しないものに気持ち悪がるのは分かるけど、平気でそれを言葉に出来る神経が分からない。
とはいえ、都会で暮らす人には都会で暮らす苦労があることが、都会で暮らしてはじめてわかった。家賃は高いし、ご飯も高い、そしてとにかく人が多く、ゴミゴミしている。その中をサバイブしていくだけでかなり気力を使う。だからこそ「非日常としての逃避先」に自然がチョイスされるのだと思う。しかし母数が多いからこそ、突飛なことをしても目立たないし、地域の人間関係が希薄なので(少なくとも独居世帯にとっては)ものすごく楽。
ただ、能動的に生きているという感じはあまりなく、どちからというとなんとか生き延びている感覚で生きている。それでも田舎より生きるための選択肢はある。それが何にも代えがたいメリット。
都会にいると、親がよく子供と遊んでいる姿を見る。田舎では親が子供と遊んでいる家はほとんどなかったように思う。そもそも世代が違うので何とも言えないが、自分は親に遊びに連れて行ってもらったことがほとんどないので、ちょっとうらやましいと感じる。家族で遊ぶ家族は公園などで観測できる一方、家族で遊ばない家族は私からは見えない。もしかしたらそういう家も案外あるのかもしれない。
話は逸れるが、関東に住むと「首都圏の人間のための非日常・逃避先として整備された町」が結構あるなと思う。近場だと江の島、富津、秩父あたり、泊りも含めると熱海、軽井沢、那須塩原(新幹線で1時間圏内)あたりがそうなのかなと思う。あのあたりに行くと「いかに観光客に金を落とさせるか」という圧をひしひしと感じて怖い。「旅行パッケージ化された町」だなと思う。そう思うのは自分が観光らしい観光が大の苦手というせいもありそう。
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KIRINJI並みになんで売れない?系アーティスト、メイヤー・ホーソーン
読んだ本
わかしょ文庫「うろん紀行」
物語にまつわる場所をひとりで訪ね歩く紀行文。往年の作品が多く、読んでみたいけど内容は知らなかった、というものに触れることが出来て良かった。「うろん」は「胡乱」で合ってますかね?のんびりとしながらもハリのある文章だった。色んな場所や時代に思いを馳せながら読んだ。コストコで万延元年のフットボールを読もうとしたけどあまり集中できない話が面白かった。