狂気の沙汰も萌え次第

雑記ブログのはずが同人女の日記になりました。

人間どうしの分かり合えなさについて

結論から言うと、人間は真に分かりあうことはできない。

私は「わかってほしい」という気持ちをできる限りで捨ててみたけど、全部は捨てきれない人です。もちろん伝えたいことはたくさんあって、それについての主張は端的に行う。でも、「それってどういうこと?」と説明を求められた時に、過去の「わかってもらおうと言葉を尽くしたけどわかってもらえなかった」経験や「分かってはもらえたけど受け入れられなかった」経験を思い出してしまい(具体的な過去の出来事を逐一思い出すのではなく、ダメだったときの徒労感だけがリフレインする)、結果、説明を放棄したり濁してしまうことが多いのです。

「どうせ分かってもらえないだろう」という前提で生きるとかなり生きやすい。他人に期待していないから。
個人的な話をすると、自分は音楽の趣味に関してそもそも周囲に「分かってもらえる」と思わずに大人になった。大人になってから偶然同じ趣味の人に出会ったときのことだった。「いままで周りの人と話あわなかったでしょう。辛かったよね」とまるで「この世の割とつらい方の不幸」のように言われて内心びっくりしてしまった。心の中で(そんなことはないが)と思いながら「ええ、まぁ」と答えてしまった。どんな小さなことでもなるべく諍いを起こしたくないから。しかし、音楽を楽しむのに他人の存在が必要だろうか? もし同士がいて語り合えれば楽しいとは思うが(実際楽しい)、それができないからといって自分の音楽体験がマイナスになることは決してないと思っていた。その人は「他人に趣味をわかってもらい、楽しみを分かち合うことが幸せ」という価値観のもと生きてきた人なんだろう。

もともと、自分は他人と繋がりたい欲が希薄で、基本一人で楽しみたい派の人間だった。というか、多分「関係を維持する力」がすごく弱い(≒自己中)。そのせいか「繋がりたいタグ」の存在意義が本気でわからなかった。繋がった所でどうするの? しょせんチヤホヤしてくれる人集めしたいだけじゃないのか? と穿った見方をしていたし、今もそういうきらいがある。
私の「関係を維持する力」の弱さは多分、「分かってほしいけど分かられない」経験や「簡単に分かられてたまるか」というつまらない意地が結局のところ他責化しているところにあるのだと思う。上の例で言うと、音楽に関しては自分ひとりのなかですべて完結出来ていたが、それ以外の分野では声をかけてくれた人同様、分かち合いたい気持ちが多少なりともあったんだと思う。
同時に、「分かりたいけど分からない」、「頭で理解できるが心では受け入れられない」他人の一面にぶつかる。ここから互いの価値観を擦り合わせるとなると、途方もない時間と労力が必要となり、じゃあもうついていけない、もういいや…という結論になりがち。


でもとにかく私はその時「音楽を語り合う仲間がいないのは不幸」だと言っていた人の気持ちを理解できなかった。相手も私の「仲間がいなくてもいい」という気持ちは理解できなかった。私はその場で「人間は真に分かりあうことはできないんだな」と、しみじみ思ったのだけど、この場合は単に私が説明を放棄したから「理解する材料がない」状態にしてしまっているんですよね。それはやはり愚かなことだったなと今となっては思います。

「分かり合えないから説明や付き合いを放棄する」のってやや粗暴な振る舞いだろうし、相手に失礼なんじゃないかとなって思うようになった。別に、相手に迎合するわけでも、自分の価値観を押し付けるわけでもなく、お互いの違いを認め、相手の大事にしているものを阻害せず、必要があれば折衷案を模索する。綺麗ごとのようだけど、大事なことだと思う。魂のぶつかり合いをしたいぜ…
そもそも、「人間は分かり合えない」前提があるからこそにコミュニケーションが生まれ、発達してきたのかもしれない。最初から分かり合えたらコミュニケーションする必要がないし。


結局、自分を誤解されることを恐れているのかもしれない。「分かってもらえない」ことは「自分の考えが及ばない形で相手に誤解され続けている」ことにもつながるから。

岡本太郎も誤解を恐れるなと言っていた(誤解は自分の陰であって実像じゃないのに何故恐れる必要がある。実像となるものが強く生きると当然誤解も比例して多く生まれるが、だからなんだ。ただの影だろう※意訳)
私はなるべく創作アカウントでは自我を出さないようにしています。なぜなら自分は誤解されたくないし、私の人間性が「他人の創作物を読むフィルター」を曇らせたらやだなと思うから。でも今は逆に思いっきり私の人間性が誤解されるような強烈な(≠過激な)作品を作ってやるぜという気持ちすら湧いている。


余談1)よく「頭のいい人はひけらかさない」と言われるが、「話したところで周囲に理解されない」経験を積んでいるから「話さない」、なんて側面がもしかしたらあるのかもしれない。あとは「意見の対立による諍いを起こしたくない」という側面もあるかも。世の中には「自分と違うことや知らないことを言われると『自分が攻撃されている』と認識して怒りだす」人がいるから。別に私が頭いいと言いたいわけではない。私は愚か者の自覚が大ありだ!!


余談2)私バンクシーのことすごく嫌いなんだよね。バンクシーという匿名性の中で社会批判だ何だを好き放題やってる感じが…だからこそ岡本太郎が実名で顔出しして「好かれようとしない」創作をしたのがうつくしく見える。でも私がこんなふうに創作アカウントとは違う河崎という名義で好き放題かいてるのも、バンクシーと変わらないのかも。単に自分の嫌なところを他人に見出してるだけの話だった。




……な~んてことを寝る前に考えていて、すぐにでも文章にしたかったのだがここでブルーライト浴びたらきっと今夜は眠れなくなってしまうという予感があり書かなかった。翌日に思い出しながら書いているが、寝る前に考えてた内容の1/5も論じられていない気がする。寝る前の思考ってなんであんなに加速するんだ。
結局のところ、私はこんな風にブログに自分の考えをまとめることで、安心したいのだと思う。文章は書き始めれば終わりがあるので(筆者が「終わり」と書けばなんであろうと「終わり」なのだ)思考が頭から分断される。それが全部であれ一部であれ、姿かたちが文章になるので、多少「正体が分からない故の不安」が拭い取れる。つまり安心する。自分の気持ちに折り合いをつけて生きていきたい。とっちらかりまくった文章の自覚おおありだが、自分の思考整理の記録として残しておく。


……そもそも人が分かり合ってる状態って…なんだ?(哲学)


ここから日記。先日、自分の尺度をわたしに当てて話す人にすごくイライラしてしまった。でも自分だって自分の主観に基づいて話しているし、人間誰しも一人称の視点を持っていて、価値観はそれに準拠しているのだからそれに対して過度にイライラするのはお門違いだし、きっと自分も知らず知らずのうちに他人を傷つけているだろう事実に気づき、己の愚かさに恥じ入った。

わたしは「己の愚かさに恥じ入る」という表現が大好きだ…出典はこちら
身の程知らずの名士 血を吸うカメラの餌食その愚かさに自らを恥じ入る夜/キリンジダンボールの宮殿』