狂気の沙汰も萌え次第

雑記ブログのはずが同人女の日記になりました。

「花束みたいな恋をした」論

もうすぐ是枝裕和監督の新作映画『怪物』が公開されるので、本作の脚本を担当している坂元さんのヒット作「花束みたいな恋をした」を見て予習しておこうかな、と思い、見た。「いじわるな映画だよ」ということくらいしか事前情報がなく、「花束みたいな恋ってどんな恋?」くらいの軽い気持ちで見た。軽い気持ちで見たことを後悔した。2015~2020年のサブカルチャー固有名詞のオンパレード、他者の作品によって自分を語る若者、夢に挑戦し始める若者、仕事に悩殺され文化を楽しむ余力すらなくなる若者。抉られる。自己投影せずにはいられず「自分のかさぶたになった部分」をひたすら抉られる。痛いよ!! いますぐ殺してくれ!! 誰の他でもない、この私を!!! という気持ちになる。こんなのエモエモ恋愛映画じゃない、ただのホラー映画だ、と瞬間的に思った。脚本家がニヒリストなのかと疑いたくなる。映画館で見なくてよかった。あんなもんノンストップで見ていたら、劇場の椅子から立ち上がれなくなるほど憔悴していただろう。さまざまな映画の演出が全部皮肉に思えてくる。私がそう感じてしまっただけなのか、本当にそういう意図があっての演出なのか、どっちなんだ。


この映画は、サブカル好きな大学生の麦くんと絹ちゃんが終電を逃した2015年の夜、京王線明大前で出会うところからはじまり、付き合い、同棲し、やがて社会と労働に疲弊し、最終的に価値観の不一致から別れるまでの5年間を描いている。
先述の通り二人は「サブカルチャー」と括られる分野の本や音楽や映画が好きで、それをきっかけに交際がはじまる。服の趣味も似ている。考え方も似ている。(メタ的な見方をすると、演じているのが有村架純菅田将暉なので、誰がどう見ても美男美女カップル)にもかかわらず、得も言われぬ不安に襲われた。


 麦くんと絹ちゃんは「何が好きか」は語るが、「どこが好きか、どう好きか」は語らない。(これも脚本上の都合なのかもしれないが)そしてふたりは「その人は今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も感じない人だよ」と作品を他者を見下す物差しとして何度も引用する。終電を逃した夜も、実写版魔女宅最高!と言っていた女性を見下していた。それなのに、拾った黒猫に「バロン」と名付けたりする。皮肉が効いている。というか、ふたりは「好きなものが同じ」というより、「嫌いなものが同じ」なんだろうなと思った。だからこそ、ありふれた日々を奇跡みたいに扱ってしまうんだろう。
とにかくふたりの「他者へのまなざし」がきつい。自分の何もない部分を埋めるために、本やカルチャーを摂取しているような匂いを感じた。大衆に受けているものを下に見ることで、「僕らが選ぶものこそすごい、僕らこそがすごいんだぞ」と主張しているようでもあった。しかし、そういう時期は(特にオタクと呼ばれる人間)特段珍しくなく、はしかみたいな部分もある。だからこそ「酔ってる」感がつらい。
酔ってる感といえば「天竺鼠」という芸人のお笑いライブの下りを思い出す。ふたりとも同じ公演のチケットを取っていながらも、ふたりともライブには足を運ばなかった。絹ちゃんは「一回デートした男とばったり会い、ライブよりも飯(=男との関係性)」を優先し、麦くんはライブの日程をうっかり忘れていた結果だった。そのことを二人は「行けなくなった、行けなかった」と表現しました。事前にチケットを取るほど好きなら普通は忘れないし、誘われても「予定あるから」って断るもんじゃないの? 映画に描かれない微妙なニュアンスがあるのかもしれないけれど、「天竺鼠への気持ちはしょせんその程度なのでは?」と思わざるを得なかった。「行けなかった」と「自分ではどうもできなかった」というニュアンスを混ぜるのも、自己保身と顕示が見え隠れしてこわいなぁ、と思った。そして絹は「天竺鼠(てんじくねずみ)」をずっと「てんじゅくねずみ」と発音していた。麦も特に気に留めていないところが怖かった。二人ともミーハー説が濃厚になってしまった。


麦くんは新潟から進学のために上京してきた男の子で、絵を描くのが得意。ガスタンクが好きでそれらの写真をまとめた3時間超の映画も作っている。結構クリエイティブである。「イラストを仕事にできたらいいな」と言っていたし、実際、ツテをたどって1カット1000円という安価な報酬ではあるがイラストの仕事も請け負いはじめた。しかしそれだけで生計はたてられず、やがて実家からの月5万の仕送りも無くなる(というか、フリーターになってからも親の脛かじってたんかい…)。やがて生活と将来のために1年遅れで就活し、営業職についた。平日夜や休日を利用して絵の仕事を続けると意気込んでいたものの、仕事は想像以上に忙しく、絵を描かなくなったどころか漫画やゲームを楽しむ気力すらなくなり、パズドラしかできなくなる。この疲弊していく描写がリアルすぎてしんどい。
本棚にはビジネス書や自己啓発書が増えていく。いくら忙しくとも、本を読むことを辞めたわけではなかった。エンタメ全体軽んじているような発言が増え、仕事中心、ひいてはステレオタイプな社会人的思考になっていく彼を見て「きっと社会が彼の背骨になったのだな」と思うと同時に、「彼にとっての読書は、以前から目的でなく手段だったんだろうな」と思った。「今井夏子」も「自己啓発書」現実をサバイブするためのツールだった。彼の中には「誰かに、誰の他でもない俺を必要としてほしい」という潜在的欲求があり、営業として就職したことによってそれが達成されたんだろうと思った。次第にマッチョイムズに染まっていくのはしんどかったのだが、こんなのありふれた話なんだろうなと思った。子供を産んで3人か4人で仲良く多摩川沿いを散歩してさ、からはじまるプロポーズの気色悪さよ…「あの二人も色々あったけど、今は仲のいい夫婦になったね。なんか空気みたいな存在になったねって。そういう二人になろ。結婚しよ」と、結婚=妥協ともとれる最悪な言葉。これが普通の意志疎通出来てるカップルの男が言うならわかるんですが、あれだけ意見や生活の食い違いが発生した上で言うのは…麦も絹も、プロポーズは「双方の最終意思の確認作業」であり「一発逆転のホームラン」ではないことを理解してちゃんと別れたのですごいなと思いました。


映画は基本的には絹ちゃんの目線で描かれている。彼女を見ていると、麦くんのことは「サブカルチャーを嗜んだ人間特有の言語で話せる同世代の男の子」だから好きになったのではないか? と思った。遠い異国の地で、自分と同じ母国語を話す人に無条件で好意を抱くような感じで。「スペックに惹かれて付き合う」なんてありふれた話で、だからこそ「サブカルという共通言語」が話せなくなってしまった麦くんは好きの対象ではなくなってしまった。絹ちゃんは学生から社会人になっても、一貫して本や芸術や音楽が好きな女の子だった。軸がぶれていなかった――そう、彼女はずっと軸がぶれていなかった。大学生の頃は「麺と女子大生」というJDブランドを活用した(と思わしき)ブログを書いていたし、IT業界の男が集まる飲み会に行っていた。フリーターになってからも(しぶしぶ、といったニュアンスではあったが)コリドー街で名刺集めをしていたし、麦くんの友人たち(クリエイティブっぽい集団)と頻繁に遊ぶし、若手社長の飲み会みたいな場所にも行っていた。なんだかんだミーハーで、誰かとつるむのが好きな、心のどこかでロマンスを求めている普通の女の子なのだ。都内に実家がある、そこそこ裕福そうな過程で育った人間特有ののんびりさや、カルチャーへの関心を作る土台もあるように思えた。もちろん、カルチャーが大好きなことには変わりないのかもしれないけれど。

ふたりは「労働」という社会構造によって関係性が崩壊したのはまちがいない。しかし、きっかけを辿ると、「サブカルという共通言語」で結ばれたふたりは、モラトリアムという青春のボーナスステージを利用し、恋愛を満喫していたのであって、そもそもこの5年間はあらかじめ機嫌が定められた関係性に過ぎなかったのかもしれない。どちらかというと、「労働」という現実によって魔法が解かれたのだと思う。
「何物かになりたい」「誰かに必要とされたい」「自分を分かってほしい」。誰しもが持つ欲求を恋愛のプロセスを通して描いていた作品だった。(所謂「ロマンスもの」ではなく、恋愛考察映画でもある)同じ曲を聞いていてもイヤホンから出る音がLとRで違うように、彼らが最初から見ている世界は違っていた。



さて「花束みたいな恋」って結局どんな恋だったのでしょうか? 「花束」という言葉自体には綺麗でポジティブなイメージがあります。しかし、その言葉だけではどんな花たちが束ねられているのか分からない、つまり具体性がいまいち欠ける、「美化された薄っぺらさ」を表現したのではないでしょうか? もしくは「刈り取られて、根の張ることのない一瞬の恋」「恋のきらめき、儚さ」を表現しているのかもしれません。というか、全部かもしれません。

意地悪なことばかり書いてしまいましたが、恋愛映画としてとても完成度が高い映画でした。有村架純さんと菅田将暉の「絵に描いたような、これ以上ない幸せなカップル像」の自然さが素晴らしかったです。撮影当時二人ともアラサーだったはずですが、どこからどう見ても(いい意味で)普通の大学生でした。
海で麦君が突然姿を消すシーンなんかも、明るい雰囲気ながらドキッとする描写で(トイカメラ風の色合いもよかった)、さわやかが食べられなかったエピソードも相まって見事なターニングポイントになっていたと思います。脚本家独特の言い回しも面白かったです。


メタ的な話をすると、ふたりが同棲している家は「調布駅から徒歩30分の割安マンション」と言うには広すぎる気がするし、そもそも立地的に言えばその家は京王多摩川駅から徒歩5分だし、具体的なお金の話や家事分担の話をしないし、リアリティーは薄めで、ファンタジー要素が強いなと思った。
妙に印象に残ってるのは「カラオケ屋に見えないカラオケ屋で開催された合コン」に来てしまった絹ちゃんが「胃を半分切除したおじさん」の横に座ったシーン。おじさんは「懇親会」とか「異業種交流会」を馬鹿正直に捉えちゃった系の素直な人かな? とはじめは同情的に捉えていたが、浮かない顔の絹ちゃんにばっちり身の上話を聞かせていて、うーん…おじさん…と思った。でも1人で酒を煽る姿があまりに哀愁があって……おじさん!!!